らすたちゃん

新宿に住んでる20代ダメ女の日々です。たまにレビューとかも。

天才を愛して、

怠惰を憎む。

”今の社会で前線に立っている所謂「成功者」のうち、99%は「やるときゃやる」凡人と、1%の「ラッキーな」天才だ。”

これは私の感じている世の中の構図です。
(天才だって十分に努力している!と憤る人はこの先読まないほうが良いかもしれません、あくまで主観なので)

四半世紀の人生で、天才には数多く出会ってきました。
華々しい舞台を手にする彼らも居ましたが、殆どの場合、堕ちるところまで堕ちた塵の山の中で、です。
わたしは凡人の群の中で、闇の中の天才を見てきたのです。
わたしはどうなのかと聞かれれば、まぎれもなく凡人です。
そしてそんなわたしの周りに多いのも、所謂「エリート」と言われるような凡人です。
彼らを「凡人」と言うのは、間近で付き合いを続けてきた同志だからこそでしょう。
小学生の時分より小説を書き続け、二十歳過ぎて賞を受け文壇デビューした者。
エレベーターの開発でシンガポールの研究機関へと若くして抜擢された者。
優れた教師として、自分と年端のたがわぬ学生を纏め指導する立場にある者。
信用性の高い論文を提出し、普段の誠実さと人望からも多くの支持を得、同期先輩を抑え教授職につく者。
そういった、「やるときゃやる」凡人、所謂彼らは秀才なのです。
そしてわたしも、多くの場合に彼らと業績は違えど、そういった扱いを受けてきました。
この凡人性を自覚するというのは、ごく稀に見かける、先述の自分にふさわしく華々しい舞台を手に入れた天才に出会ったときに、自分の凡庸さをどうしようもなく突き付けられるからでしょう。
彼らはスポットライトに照らされるように、多くの場合、その輝く才を「誰かに偶然に目に留められ」、彗星のように現れてすべてを塗り替えてゆくのです。
作家は忘れ去られ、研究者はとってかわられ、教壇は奪われ、論文の名声は埋もれるかもしれません。
だからわたしたちは、天才が「やるときにちゃんとや」ったら、決して自分のような凡人など敵わないということをよく知っているのです。
別に悲観している訳でも世の中に絶望している訳でもありません。
ただ、そういうことなのです。

しかし、奴らが「やる」ことは決してありません。
なぜならば、彼らは概して怠けまくっているから。
自分の才能に気づいて胡坐を書いている場合、体力気力を失って横になっている場合、ただ怠けることに終始する場合、総じて怠けている彼らです。
今迄の付き合いから、天才にはわたしのような凡人と比べて膨大な「時間」が必要であるということは、十分にわかっています。
クリエイティブである為には多大なるエネルギーを他の遊びに費やさなくてはならないということも。
子供のままの純粋さをどこかで持ち合わせていなければならないということも。(自由は時間を消費します。)

けれども。
けれども、それでも見ていて余りある怠惰を君らは貪っているのではないか、と最近思うのです。
だから、見ていて、傍にいて、わたしは大分疲れてしまったのです。
そこまで怠けなくてはならないのか?
貪るだけ貪った怠惰にすら飽きて、自分の才能が埃を被り、埃の被ったそれをいずれ疑って、どこかに悔恨をまとったまま凡人の服を着ざるを得なくなった、塵の中の惨めな誰かに、なってしまうのではないのか。

天才さんたち、できることならわたしは君らにハッパを掛けたいところです。
せめてわたしの半分、3分の1で良いから腰を上げていて下さいませんか。
これがもし実現するとすれば、わたしを含めて多くの凡人の危機になるでしょう。
けれどもうわたしは、煽られない寂しさよりはましな気がするのです。
天才には、こんな凡人のお願いを目に留めたとすれど、一笑に付すしかないでしょう。
もし、そうして怠惰で居なければいけないというのであればそれでも良いのです。
わたしのような、やるときゃやる凡人に任せてくれたらそれでいいのです。
けれど、文句は言わないで頂きたい。
君らは、動かなかったのだから。